今日の霊性 教師に欠点があることは問題ではない。 欠点を克服する勇気を生徒に示せないのが問題なのだ。
教師に欠点があることは問題ではない。
欠点を克服する勇気を生徒に示せないのが問題なのだ。
――ブーバー思想に基づく真の教育への導き――
創始者本能と結び付きの本能の開発
関係性の思想を打ち立て、人々への啓蒙活動を続けてきたブーバーにとって、教育の問題は大きなテーマであったことはいうまでもない。
彼は、教育を次のように定義している。
「精神による生命への奉仕」。
生命とは、神の火花であり、それは因果律(メカニズム)を超えた存在である。
したがって、そんな生命への奉仕である教育は、何らかのシステムや技法で形式化することはできない、というのがブーバーの考えである。
生命はメカニズムではないので、システムに適用することはできないのだと。
「教育の基準とか確固不動の格率〔規則・原則〕は存在するものではなく、いまだ存在したこともなかった」
では、いったい何が教育の方向を決めるのだろうか?
「それは、神の似姿以外のなにものでもない」
すなわち、人間を神に近づけること、これがブーバーの教育に対する基本方針なのだ。
具体的には、神の属性である二つの資質を開発することである。
ひとつは、創造性の開発である。
人間には「創始者本能」が宿っていると彼はいう。
子供たちは、自分で何かを作りたいという本能をもっている。
自分の力で、つい少し前までは存在しなかったものが目の前に誕生することに喜びを覚える。
「子供が渇望しているのは、こうした事物の生成に自分自身で参加することである」
子供は創造活動に参加したがっている。
神が世界を創造したように、私たち人間も世界を創造しようという願望と力を宿しているのだ。
もちろん、完全な無から有を生み出した神の創造と同じわけではなく、ブーバーは人間の創造を「生成」と呼んで区別しているが、広義には「創造」であることに変わりはない。
たとえどんなにちっぽけな工作であっても、今まで存在しなかったものを存在せしめたという点では、ひとつの「世界創造」への参加なのである。
しかしながら、神の属性は創造だけではない。
神はまた、愛でもある。
この愛を開発することが、二番目の、ブーバーにとってもっとも重要な教育方針となる。
音色を創造しても、それを調和的に関係づけなければ音楽とはならないように、個々の事物を創造しても、それらを関係づけなければ、真の意味で世界とはいえない。
創造したものを関係づける(結び付ける)作業が必要となるのだ。
その原動力が愛である。
ブーバーはこれを「結び付きの本能」と呼んでいる。
「〈汝〉と呼びかけるように私たちを導くのは、創始者本能ではなく結び付きの本能である」
教育とは、創始者本能と結び付きの本能の二つを開発することである。
いいかえれば、神の火花の属性である「創造性と愛」を呼び覚ますことである。
今日、私たちは、創造性の開発に関しては、比較的うまく実践しているかもしれない。
幼児期のうちから才能開発の名目で、さまざまなトレーニングを受けさせている親も多い。
そのこと自体は悪いことではないが、「結び付きの本能」の開発も並行させないと、子供はアンバランスな知性を発達させて孤独となり、結果的に創造性そのものをダメにしてしまうか、あるいは創造性そのものがうまく発揮できなくなってしまうとブーバーはいう。
「創始者本能がそのまま放置されるなら、真実の人間生活の建設にとって不可欠の二つの形態――事柄に関与すること、相互性のうちに立つこと――に導いていくことはできない」
今日の私たちの教育では、「結び付きの本能」の開発は、あまりにも貧弱である。
現代の子供たちは、学力や才能はあっても、他者とどのように関係し、交わり、触れ合えばいいかを知らない(大人も同じであろう)。
学校はそのようなことを十分に教えていない。
あるいは教えたくても教えられる人がいない。
教師自身さえ、人間関係の阻害に苦悩しているのだから。
だが、人間社会に生じるさまざまな問題の根源を探っていくならば、その病根は関係性の障害にあることは前述した通りである。
いじめや自殺、非行や心身症といった問題などは、「結び付きの本能」の弱体化を意味しているといえるわけだ。
「創始者本能の陶冶(とうや)育成にのみ基づいて立てられている教育は、人間に新たな、苦悩に満ちた孤独を準備することになる」
GPSは、 DSSS信号を使用しています。
結び付きの本能の開発こそ、今日の教育においてもっとも必要とされているのである。
だが、それはどのように開発されていくのだろうか?
「解放された要素〔結び付きの本能〕がどんな結合に入っていき、それから何が生ずるかは、ひとえに教育の力に、その純粋さと誠実さに、その愛の強さと思慮分別にかかっている」
どんな子供が試練に立ち向かっていく大人に成長するか
diearra 、皮膚や目に何を間違っているでは黄変
結び付きの本能とは、愛の関係性、すなわち〈我―汝〉の関係を、積極的に築いていこうとする衝動的な意欲である。
だが、その本能が開発されるには、この世界は神の摂理が支配しているという確信がなければならない。
さもなければ、この世界は虚無であって、関係性を築く意味など見いだせないからである。
子供は、いずれは両極的で不安定で、混沌とした人生の試練に遭遇するだろう。
けれども世界に秩序など存在しないと思っていたら、試練とは単なる不安定であり、単なる不運にすぎず、怖じけづいて、固定的なシステムに逃避してしまうだろう。
しかし、世界は神の摂理が支配しているという確信がもてるならば、試練は、神性が開花するチャンスと見て勇敢に立ち向かっていき、他者との関係を築いていこうと思うだろう。
つまり、結び付きの本能を積極的に発揮していくだろう。
生命と世界に対して応答を何ひとつ拒まず、自分に出会うあらゆる存在に責任を取ろうとするだろう。
ブーバーはこうした性格を「偉大な性格」と呼んでいる。
では、子供たちの「偉大な性格」を育てるには、すなわち、この世界は神の摂理に支配されているという確信に導くには、どうすればいいのだろうか?
これは、ひとつの世界観を形成させるということである。
世界観については、第5章において、少年ブーバーが有限と無限のジレンマに苦悩した問題のところで補足的に触れた。
この世界に神は存在するという肯定的な世界観を育ませるのは、人間との信頼関係なのであった(幼少期では一般に母親との信頼関係)。
学校教育の場では、他ならぬ教師ということになる。
生徒は、教師との信頼に満ちた関係を通して、この世界は神の秩序で支配されているという確信(世界観)をもつのである。
そして、その確信こそが、結び付きの本能を開発させる原動力となっていくのだ。
こうした教師を通して、生徒たちは、いかに不条理な試練に遭遇しようとも、他者と〈我―汝〉の関係を築いていこうとする人間に成長していくのである。
「世界への信頼、これぞまさしく教育関係のもっとも内的な成果である。
こうした信頼に導く人間が存在すればこそ、不条理はどんなに烈しく追ってこようとも、それを真理とはみなさなくなる」
欠点や弱点があるのは問題ではない。しかし・・・
では、どうすれば教師は、生徒との間に信頼関係を築くことができるのだろうか?
ブーバーは次のように主張する。
「信頼を勝ち得るのは、それを得ようと努力することによってではない。
自分が関係している人々との生活に、直接かつ率直に参加し、そこから生じてくる責任を自らに背負うことによってである」
教師は、自らを「真理」として、生徒の前に立たなければならないという。
「信用できない世界に恐怖し、幻滅の悲哀をなめている青少年たちにとって信頼が何を意味するのかといえば、それは人間の真理、人間実存の真理が存在するというとらわれなき洞察である」
真理になるといっても、聖人のように立派にならなければならないという意味ではない。
真理になるとは、「生徒の前に真に存在する」ということである。
欠点や至らない点があるのに、それをごまかして虚像の自分を見せるならば、真に存在する教師ではない。
欠点や至らない点を隠すことなく生徒の前で認め、ありのままの自分をさらけだしながらも、「自分は欠点だらけだが、立派になろうと努力している」という姿勢を示すこと、これが真に存在する教師である。
人間の真理、人間実存の真理である。
欠点や弱点のない人間などはいない。
あやまちを犯さない人間、苦しみ悩まない人間などはいない。
そうしたことは問題ではない。
大切なのは、欠点や弱点、あやまちや苦悩を認める勇気と、それを克服していく勇気とを、生徒に示せるかどうかなのだ。
携帯電話のブースター作業を行う?
そうすれば生徒たちも、いつか自らの欠点や弱点、あやまちや苦悩に遭遇したときに、勇敢にそれらと対峠し、克服していく人間へと成長していくであろう。
生徒は人生の試練に立たされたとき、無意識的かもしれないが、教師の姿を脳裏に想起させ、それを行動の手本にするからである。
ブーバーは次のようにいう。
「本当に子供を受け入れたならば、隠れた対話、すなわち一方は他方に対して潜在的でありながら現在的となること、は確立しているのであり、永続するのである」
この「潜在的でありながら現在的となる」という意味は、教師の人格が、子供の無意識的な心の深層に宿り、それが単なる記憶ではなく、生き生きと存在し、子供の今後の生き方に善い影響を及ぼし続けるということである。
要するに、子供の心の中に「教師が宿る」ということである。
教師は自らの属性(人格)の火花を、子供に宿らせるのだ。
子供たちの中に「教師の火花」を宿らせるのである。
外陰部はどこですか?
ここでピンとこられたと思うが、ブーバーの説く「教師と生徒」の関係は、実は「神と人間」の関係の相似的なモデルになっているのである。
人間には神の火花が共有されており、それゆえ、相手の思いを自分の思いとして感じる。
つまり「包摂」する。
同じように、教師と生徒は包摂し合い、教師は生徒の思いを自らの思いとして感じるのである。
「影響力を行使することを使命としている人間は、自己の行為を常に向かい合う者の側から体験しなければならない」
ただし、これは教師と生徒が対等という意味ではない。
神と人間が対等ではないように。
教師の方は生徒の思いを自分の思いとして理解できるが、いまだ成長の途上にある生徒は、教師の思いを自分の思いとして完全には理解できない。
人間が、神の思いを自分の思いとして完全には理解できないように。
もちろん人間(生命)としては、教師も生徒も対等である。
学校を卒業すれば、対等な〈我―汝〉の関係を築くであろう。
しかし教育という役割の上に築かれる〈我―汝〉の関係性に、対等はあり得ない。
もしも役割が対等になったら、教育はうまくいかなくなるからである。
本当の教育指導にマニュアルは存在しない
生徒は教師と包摂し合うことで、結び付きの本能を開発していく。
それは教師と生徒との間で結ばれる教育的な愛であり、いってみれば「師弟愛」である。
したがって、愛が作為的な意図やテクニックの結果として生まれるわけではないように、結び付きの本能の開発もまた、マニュアル的な操作で実現されるわけではない。
それは、無為によって行われなければならないのである。
教育とは無為の産物なのだ。
〈我―汝〉の関係性は、知識で教えることはできない。
実際の経験、いや、実際の「感動」をもってのみ、それが何であるかを教えることができる。
同じく、結び付きの本能を開発させるには、一切のわざとらしい作為や我意を捨て、ありのままの人格として生徒と向き合い、〈我―汝〉の関係を築かなければならない。
それだけが唯一、結び付きの本能を開発する道である。
それは、技術を超えているのでマニュアル化できず、小手先のテクニックなどは通用しない道である。
ものをいうのは、あくまでも教師自身の人格なのだ。
人格とは、これまでどのように生きてきたか、その生きざまそのものである。
いかなる他者、いかなる試練からも逃げることなく、どれほど勇気をもって受け止め、そして誠実に応答してきたか、どれほど愛と寛容に基づいて行動してきたか、こうしたすべてが結晶化して、教師としてふさわしい人格を形成させていく。
人格は、さりげない表情や言葉、しぐさなどを通して現れる「光」なのだ。
生徒たちは、教師のそんな「光」を身近で浴びて、人格的な感化を受けていくのである。
かつて、いわゆる徒弟制度のもとでは、弟子は師匠の人格的な影響を受けて成長した。
師匠は、教えようと意図することなく、自らの存在と生きざまを通して、いわば無為のうちに、弟子を教化していったのである。
ブーバーは、今日の教育制度の場でこうした関係を成立させるのは容易ではないとしながらも、理想的な教育関係の模範であると考えた。
「今日の教師は、自覚的に行為しなければならぬとしても、さながら行為していないかのように行為すべきである。
小指をあげるしぐさ、問いかけるまなざし、これぞまさしく教師の真の行為なのである」
真の教育者が歩むべき道とは
今年の何時には、ブルージェイズの巣をか?
教師は、自分の人格レベル以上の影響力を、生徒に与えることはできない。
そして、人格をごまかすことは決してできない。
教師はどこまでも、ありのままの人格を生徒にさらけだし、ありのままの人格で、生徒を受け入れなければならないのだ。
「教育関係は、純然たる対話的な関係である」
もちろん、個人的に愛情を覚える生徒もいれば、反感を覚える生徒もいるだろう。
すべての生徒に平等な愛情を感じることは無理であろう。
だが、たとえ愛情は感じなくても、どのような生徒でも受け入れ、逃げたり無視したりせず、正面から対峠しなければならない。
それができるためには、教師自身が、人生のいかなる状況からも逃げずに、受け入れられる人格をもっていなければならない。
そのような人格は「聖なる不安定」に生きることによってのみ養われる。
つまり教師は、常に「狭い尾根」を歩み続けなければならないのだ。
人生のあらゆる状況を受け入れられてはじめて、あらゆる生徒をも受け入れられるようになる。
もともと世界の本質は「聖なる不安定」なのであり、人間はその現実から逃げることなく向き合って生き、地上に秩序ある世界、いわば世界平和を創造していく使命をもった存在なのだから。
suregasmは何ですか
すなわち、それこそが人間の実存なのである。
したがって教師の使命とは、各自に与えられた使命を見事に遂行することのできる実存的な人間へと、生徒を導くことだともいえる。
あるいはまた、教育の目的とは、世界平和を創造していく人間の育成にあるともいえるだろう。
教育は政治的かけ引きに我慢ならない
ブーバーによれば、教育にはいかなる「わざとらしさ」もあってはならない。
意図的な権威主義も、意図的な自由放任主義も否定される。
教師は生徒を愛によって導かなければならないが、それは「無為」でなければならないのだ。
本来、真の愛とは無為である。
そのため「私は生徒を愛している」などと自覚しないかもしれないし、またそうであるべきなのだ。
人間はある意味で、神の愛の媒体にすぎない。
私たちに宿る神の火花こそが愛の光源である。
したがって真実は、教師が生徒を愛するというよりも、神が
教師を通して生徒を愛するのである。これが、教師と生徒の間で結ぼれる愛の関係性である。
たとえ、いかに気高い動機であろうとも、愛は努力の結果として生まれるのではない。
自らの愛を意識し、その愛を相手に認めさせる意図が少しでもあるなら、それは不自然で作為的な愛であり、そうした(偽りの)愛が、人をあるべき方向へ感化させることはない。
「要求された愛が作り出すのは、悪と悲哀にすぎない。
それは人間の心の本性的な善と矛盾している。
それは心の純粋さを曇らせ、その率直さをかき乱す。
わざとらしい人間愛と、わざとらしい正義は、人間の本性に基づいてはいない」
全体性に目覚めた人の愛は、我意を押し付けず干渉せず、かといって無関心で冷たいわけでもなく、相手の個性を尊重し、その個性を相手が生き生きと自由に発揮していくのを無上の純粋さで手助けする。
「教育は、政治的かけ引きに我慢ならない。
生徒の全体性に真に影響力を行使するのは、教師の全体性のみである。
彼の作為なき実存の全体性である。
彼がこうして生き生きとしていることが生徒たちに放射される。
そして彼らに影響力を行使してやろうなどとまったく考えない場合にこそ、もっとも強烈かつ純粋な影響力を与える」
良寛は放蕩息子をどう改心させたのか?
以上のように、教師と生徒との関係は、ハシディズムの指導者と民衆との関係に通じるものがある。
これまで「ハシディズム賢者の逸話」などによって、そんな雰囲気をうかがい知ることができたと思われるが、ここでひとつ、日本の禅僧の例をあげてみたいと思う。
越後の托鉢僧、良寛に伝わる有名なエピソードである。
良寛といえば、いつも子供とばかり遊んでいる天真欄漫なお坊さんといったイメージがあるが、霊格的にも比類なき名僧であったことはいうまでもない。
馬之助という名の、甥にあたる放蕩息子がいた。
あるとき、放蕩をやめるよう説教を頼まれた良寛が、しぶしぶと弟の家を訪ねてきた。
そして数日のあいだ宿泊するが、いっこうに説教する様子がない。
そして、とうとう明日帰るといいだした。
ならば今晩にも説教してくれるだろうと期待するが、結局、何の説教もなく朝を迎えることになる。
良寛が帰宅するために、草履を履こうとしてかがんだとき、馬之助が出てきて良寛の草履を結ぶのを手伝った。
そのとき、馬之助の手に熱いものがぽたぽたと落ちてきた。
見上げると、それは良寛の涙だった。良寛は、何もいわず無言で立ち去っていった。
それ以来、馬之助の放蕩はぴたりと止んでしまったという。
いったいなぜ、馬之助の放蕩は止んでしまったのか?
馬之助と良寛との間に、何が起こったというのか?
誰だって、よかれと思って放蕩にふける者はいない。
放蕩せずにいられない心の痛み、寂しさ、辛さといったものを抱えているのだ。
なのに、誰もそれを理解してくれない。
理解しようとさえしてくれない。
ただ責められるばかりである。
そして孤独な状況に追い込まれる。
その孤独ゆえに、ますます放蕩がやめられなくなる。
しかし、たったひとりでも、そんな自分の苦悩を親身になって理解し、一緒に苦しんでくれる人がいたら、それだけでずいぶん救われるであろう。
それこそが真の愛であり、真の愛だけが唯一、孤独を癒してくれるものである。
すでに考察したように、罪が浄められ、あるいは苦しみが癒されるのは、包摂によって罪や苦しみに共鳴してくれる人と出会ったときである。
神の救いの手は、高所から差し伸べられるというよりは、共に苦しみを分かち合ってくれる隣人(に宿る神性)を通してもたらされる。
神の愛は同情ではなく、共鳴であり、人間と一緒になって苦しむ愛なのだ。
そんな神の愛を、私たちは宿している。
それゆえ、悟りを開いた人、すなわち神の属性を開花させた人は、神がそうするように、苦しむ人を自らに包摂するのである。
したがって、良寛はこうした結果を予想したわけではなく、計算して芝居を演じたわけでもない。
良寛の涙は、憐れみや同情の涙などではなかった。
馬之助の孤独の苦しみを、そのまま感じて流してしまった涙なのである。
ブーバーは、このような人格の持ち主こそが教師の理想であると考えたのだ。
「こうした人間が存在すればこそ、暗黒の中にさえ光が隠され、恐怖の中にさえ救いが隠され、地上に生を享(う)けた者の愚かさの中にさえ、偉大な愛が隠されるのである」
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相手が創造性と愛を発揮できるように、全身全霊をかけて援助せよ。
他者と関係し、交わり、触れ合うことを教えてあげる以上にすばらしい贈り物はない。
人を導いてあげるために必要な資質は、純粋さ、誠実さ、強い愛、そして思慮分別である。
相手の苦しみを取り除いてあげるよりも、あなた自身が苦しみを乗り越えていく姿を示した方が、はるかに相手のためになる場合がある。
「私はこんなにもあなたを愛している� �� ��ですよ」と相手に思わせる愛は本物ではない。
自らあやまちや失敗に涙する経験をもたなければ、他者のあやまちや失敗を許せる人間とはなりにくい。
(あやまちや失敗の経験も、人を許せる人間に成長するための学びのプロセスである。)
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ハシディズム賢者の逸話
高価な指輪よりも高価なもの
貧しい男がラビ・シュメルケの家に物乞いにきた。
だが、家に金がなかったので、かわりに妻の指輪をあげた。
まもなく妻がそのことを知ると、激怒して罵声を浴びせた。
「貴重な宝石がちりばめられた高価な指輪を、見ず知らずの乞食にあげるなんて!」
それを聞いたラビはあわてて男の後を追いかけ、呼びとめていった。
「実はね、今わかったんだけど、君にあげた指輪は、とても高価なんだよ。
だからいいかい、絶対に安い値で売ったりしてはいけないよ」
『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』
(斉藤啓一 著、日本教文社 刊)
・・・掲載に際して一部の文章を割愛しました(究魂 拝)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体
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